奈良国立博物館のお土産コーナーにあった本「名僧たちは自らの死をどう受け入れたのか」を読んでいる。作家で僧侶でもある「向谷匡史」さんの著です。
「仏教は何のためにあるのか」
釈迦(ゴータマ・シッダッタ)を開祖とする宗教で、苦の輪廻から解脱することを目的として種々の修行を行います。教義は苦の縁起からの解脱を目指し、三宝(釈迦仏、法、僧)を中心に組織されます。
コパイロット(AI) は上記のように答えました。苦は四苦八苦ありますが、四苦の生老病死のうち、死の間際には生きてきた考え方で「これで仏さまのところで休める」と思うか、「まだもっと生きていたい」と思うか・・・名僧はどのように思ったかが書かれています。
元気なうちは、「誰でも死ぬんだから怖くないさ」と普通は思います。でも、本当にそう思えるでしょうか。修行を重ねてきた名僧と言われる人たちは一体どのように思って死んでいったのかに興味があります。
10人の名僧のを目次から書き出します。自分はどのように思うのか・・・
1,仙厓・・・死にとうない
最後まで生に執着してこそ人間
2,親鸞・・・亡骸は賀茂川の肴に与えなさい
今際の際まで「いまを生ききる」
3,一休・・・釈迦も達磨も猫も杓子も、死んだらみな同じ
「自分を縛るもの」を知れば、楽に生きられる
4,良寛・・・かたみとて 何のこすらむ 春は花…
生きてきた人生そのものが最大の形見
5,山岡鉄舟・・・ま。こんなところですな
不条理な人生をどう割り切るか
6,西行・・・願はくは 花のもとにて春死なむ…
執着の果てに開けてきたもの
7,一遍・・・死ぬ時までは生きている
「明日」を捨ててこそ安心は得られる
8,最澄・・・道なかばであろうとも、精魂尽きるまで行き切る
楽観して努力する、ということ
9,空海・・・死に死に死んで、死の終わりに冥し
真の終活とは「いまをどう生きるか」
10、種田山頭火・・・もりもり盛りあがる雲へあゆむ
苦悩の人生に見いだした生への賛歌
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