「幸せ」とは何でしょう?病が癒える、お金が入る、束縛から解放される・・・・そうしたことすべてが「幸せ」ではあります。でも、それは本当に私たちの願う「幸せ」でしょうか。
一つの願いが叶って、また次の願い、欲望が生まれてくる。それでは、幸せを願うことも「執着(しゅうちゃく)」となってしまい、逆に苦しみの原因ともなるでしょう。
仏教がめざす幸せは、このような刹那的なものではありません。永遠に壊れない法(ダルマ)という真理が教える幸せです。
「無常・無我・涅槃」は、人間が永遠の幸せにふれるための重要な概念です。この三つは、仏教の基本的真理、「三宝印」と呼ばれています。
「無常」ということは物事が移ろうことです。年を取るとか、古くなるとか・・・。変化は世の定めなのに、変わらないでほしい。例えば、若いままでいたいと固執することは、得られないものを得ようとする迷いで、苦しみを生じかねません。
年齢を重ねるということは、かつて気づけなかったことに気づき、たくさんの経験が蓄積される素晴らしいことです。
「無我」は自分の肯定と矛盾するのではありません。単に、自分の思い通りにしたい、自分の観方は絶対だ、と突き進むことは、誤解や憎しみを呼び、苦しみの原因となりましょう。
相手や第三者の目にもなってみると、自分を肯定したように、相手もまた肯定できるようになります。俯瞰的な目を持てば、我執から自由になり、苦しみがなくなっていきます。
「涅槃」は、サンスクリット語でニルヴァーナ、すべての煩悩の火が吹き消された状態、悟りの境地、釈迦の入滅、死去・・・などと辞典では載っています。
涅槃に至る前提として「無常」と「無我」を修めることが必要と説かれました。
私たちは一人ではなく社会的な存在です。生まれてこの方、誰の世話にもならずに、今日がある人はいないでしょう。必ず誰かに助けられ、誰かを助けてきたと思います。
利己的に幸せを追求して、永続的な幸せを得られるものではないのです。(次回へ)
「真如」に生きる 伊藤真聡講義集より抜粋
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